新塩工場稼動…  2008年10月18日公開

フーッと一息ついて振り返ると、それはちょうど一年前の事の様な気がする。
「このままではダメだ!」塩づくりに利益が生まれなくなっていた。進む原油高がその全てだ。
もうひとつの事業”製麺業”は、とうにその力を失っている。
少し前”湧楽座”を再建し格好つけたのだが、これはまだまだ力不足の半人前、時間がかかる。
詰まる所”どうにも成らない”所へと差し掛かっていたのだ・・・。
おまけにお金は全くと言っていいほどに残っていない。 湧楽座に注ぎ込んだのだから。
”こんなに成るとは・・・”
しかし救いは中国産の様々な食品問題から国産へ、そして道産へと、しかも100%の道産食品を・・・という

消費者の声から、ずい分とウチの塩にもお呼びが掛かる様に成って
やや生産が追いつかなくなりつつあったそんな頃だったと思う。

秋風に揺れるコスモス(湧楽座前)

ここで勝負に出るのか、いやいや現状をそのまま守るのか・・・
・・・悩んだ。
繰り返すが金は無い。 銀行から借りても、
今の自分に返す力は残っていないとも判断できる。
毎日毎日考えた・・・ とにかく・・・。 月末はすぐにやってくる。
「社長残高が・・・」
──どうやら勝負に出るしか無いと決断した。 

じゃ、どんな手で打って出るのか・・・

金を掛けずに現状を劇的に改善する方法は・・・。
それは油の代わりに薪を焚く事だった。 しかも蒸気ボイラーとして。
探すとそれは首尾よく見つかった。 新潟にあった。
しかし周りの誰もがそれに手を出すことを懸念した。 出力の一定を保てない性質からだ。従ってきっちりと計算された生産ラインには不向きだと言うのだ。 全くのアナログボイラー。 冒険が過ぎるという。
挫けそうになったが、通した。

”責任はもてない”という条件付で、明けて三月の終わりにそれはやってきた。
消防法の通るいい部屋に入れてやって付き合いが始まったが、それは相当に手のかかるヤツだった。
何せ性格が、実力の程が良く解らない。 操れる様に成るまでに三ヶ月を要した。
しかし出てくる煙はどうにもならない。
最後に高い煙突を建てる事でヤツはウチで働く事に同意した。
さて今度はヤツの実力に合った塩釜を作ってやらねばならない。 だがこれも相当に難解な事だ。
八年間の塩づくりの経験を生かして設計するだけ。
何せ量産して商売にしなければならない。 頭をひねる、ひねる・・・・・・。
ただでさえ無い毛が抜けて白髪が増えた。 しかも事態は、世の中は刻々と変化してゆく。
”急がなければ・・・”

八月だったと思う

金は無いのに、その新規格の塩釜を発注した。
原油高はピークを迎えていた。 そして生産がかなりショートし始めていた。
”急がなければ・・・”   あらゆる身の回りの娯楽道具を売って金に替え始めた。
”湧楽座”を造ってくれた大工につきっきりで建物の指示を与える。
気心の知れた設備屋に笑われながらも来てもらった。
その間にも結構大きな落語会を二つばかりこなした。 自分に苦笑いだ・・・。
そして十月初め、正確には十月六日だ。 その新薪ボイラー塩製造ラインはついに稼動を始めた。
長かった・・・。
高い煙突から出る煙が嬉しかった。 そのエネルギーでワンワンと煮え上がる海水蒸気がまぶしかった。
数日後、釜の中の塩を見てホロリと来たね。

新塩工場シルエット

実際には二週間がたった昨日、
皆が帰った工場で一人、自分の造った塩の山に
手をつっこみギュッと握った。

胸が熱くなってポロリと涙がこぼれた。
ボイラーにも釜にも全てに素直に感謝が出来た。
そして支えてくれた皆々にも・・・
祖父に父に手を合わせる”お蔭様で・・・”
またひとつ山を越えたような気がする──
湧楽座の山を越えたのが二年前。少々疲れたが・・

そしてどうにか間に合わせた――

 

そんな気がしてホッとした今夜だったのです。
帰りの自転車を止めて振り返ると、夕暗みにスーと浮かび立つ高い煙突が、
遠い時代の子供の頃の風景と重なって、何だか失くしたものが皆んな帰ってきた様に嬉しい。
深い充実感が私の胸を満たした。
きっとこれが”幸せ”というものなのだろう。 ありがとう・・・。
だが今月末からデッカイ支払が始まる。 せめて束の間の幸せを、今夜は味あわせてもらいたい。
暫く行ってないお袋の家で酒でももらおうか・・・
気が付けばあたりはすっかり秋色に変わっていた・・・・・・。